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プログラミング、3DCGとその他いろいろについて

グレッグ・イーガンの『ゼンデギ』

グレッグ・イーガンさんのSF小説『ゼンデギ』を読んだので気付いたことを書いておきます。


たぶん話の内容だとかは他の方が書いていらっしゃると思うので、隙間産業を狙いたいと思います。

技術が低レベル

この『ゼンデギ』の世界はイーガンさんの他の作品と違って、技術が未発達です。(2015年現在よりはマシですが)
キャラクターたちはいろいろなことを失敗しまくります。

『順列都市』では人の脳スキャンによる精神コピーは出来て当たり前でしたが、『ゼンデギ』では最後まで出来ません。
『ゼンデギ』でも作中で技術の進歩は起こるのですが、結局最後まで、『順列都市』のスタート地点にすら到達できませんでした。

もちろん、登場人物たちの仮説が正しすぎ、上手く行き過ぎると話がご都合主義的に思えてくる面もあるので、これはこれでいいはずです。
たぶん意図的にやったのでしょうが、もしかするとイーガンさんの作品でトップレベルの失敗の多さかもしれません。

序盤は2012年なので、現在と地続きになっていることを意識させられます。
作中でとんでもない技術的ブレイクスルーが起きたりもしません。
「技術的特異点」はカルト扱いです。
物語の舞台となるのはいかにもそのうち作られそうなしょぼいVR環境です。
そういう意味で飛躍はほとんどなく、登場人物たちの地道な試行錯誤や失敗を描いた作品といえるかもしれません。

『端役』との関係

『ゼンデギ』は『端役』と結構似ています。
設定も、テーマの1つ(人間の脳を元にして作ったソフトウェアの取り扱いについて)も似ています。

このふたつの作品は両方とも、脳スキャンデータを複数使ってプログラムを作成しています。
そして両方とも、そのプログラムをゲームのNPCとして使うわけです。
ただ技術水準は違っていて、『ゼンデギ』では長期記憶すらないかなり不完全なものですが、『端役』では人間と変わりのない水準になっています。

テーマはほぼ同じで、両方ともある程度高度で人に近いソフトウェアをゲームに利用することの危うさを描いています。
つまり…人の精神の本質が計算なら、同等の計算はたとえそれが市販のコンピュータで実行されていようと人の精神そのものであって、それをゲーム中のキャラとして扱うのは奴隷制とか剣闘士に等しいというわけです。

加重平均

小ネタも似ています。
これは『ゼンデギ』の16です。

「いくつかの異なるヴァージョンは作れますか?」バハドールがいう。「さまざまなサイドローディング項目に、異なる重み付けをあたえることで?そうすれば、反応は常に意味をなすけれど、そのモジュールを使う各キャラクターで同じにはならない」

一方『端役』にはこんな箇所があります。

「異なる素材提供者に重みを置いて、異なるコンプを作る。オリジナルの人格のどれかが復活することはありえないが、混ぜあわせて生じる結果は無数だ」

たぶんイーガンさんは設定を再利用しています。
設定の再利用自体は宝石やグレイズナーやXYZW塩基や光で過去にメッセージを送る機械などよくある話です。
だから『ゼンデギ』と『端役』が同じ世界の出来事かははっきりとはわかりません。

時系列

もし『ゼンデギ』と『端役』が同じ世界だった場合、確実に『端役』の方が後の時代です。
『ゼンデギ』のテクノロジーははっきり言って低すぎで『端役』のテクノロジーをだいぶ下回るありさまなので、『ゼンデギ』の後に『端役』が起きるのでしょう。

そして…『ゼンデギ』のナシムは『端役』のような世界になることを嫌がりそうなので、おそらく彼女は失敗したのでしょう。
それでこそ『ゼンデギ』の登場人物というものです。

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