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分岐分類学は根本的なところに欠陥がある

この記事では、分岐分類学のやろうとしたことを評価しつつも、その限界を指摘します。


分岐分類学が打ち倒そうとする敵は悪だけど……

みなさん分岐分類学というのをご存知でしょうか。
鳥は恐竜だというあれです。
鳥は恐竜の子孫というだけではありません。
子孫ならば、それは恐竜だ、ということです。

人間は哺乳類です。
人間は過去に生きた哺乳類の共通の先祖(ネズミのような生き物でしょう)の子孫です。
ならば人間はその生き物の子孫というだけではなく、哺乳類なのです。
人間はこれから何億年たとうが何兆年たとうが、どんなに進化しても哺乳類です。

分岐分類学は生物が実際に進化で分岐してきた歴史から、生物を分類します。

この考え方はある意味妥当ではあります。
少なくともそれ以前の、進化論を考慮していないようなリンネ式よりは。
どんどん生物種は新しいものが出てきて分岐していくのに、門、網、目、科、属などと固定してしまっては、一兆年も立たずに破綻してしまいます。
ようは「すべての生物は神が作って生物のタイプは固定されている」という誤った世界観に基づいた分類法であるとすら言えるでしょう!!
それに対し、「生物は進化する」という現実に基づいたのが分岐分類学であると言えるでしょう。

他にも分岐分類学のメリットはあります。
それまで、どうも「クジラは海で泳ぐから魚だ」理論が横行していた感じがします。
生物の表面的な形質だけから生物を分類しようとしていた感じです。
しかし分岐分類学ではそんなことはありません。
クジラは哺乳類です。
哺乳類の子孫なのですから。

このように、分岐分類学は過去の悪習に抗おうとする立派な試みではあるのですが、それでも問題点はあります。

人類がゴキブリに進化した場合

人類がゴキブリに進化したら、それは哺乳類でしょうか?それとも昆虫でしょうか?
哺乳類っぽいゴキブリではありませんよ。
完全に遺伝子から何から何までゴキブリと一緒の生命体に進化した場合です。
哺乳類の名残は一切ありません。
直感的にはそれは昆虫だということになるでしょうが、分岐分類学は哺乳類だと言うでしょう。

これは決して下らないジョークではありません。
この記事自体はジョークカテゴリに分類されていますが、これはありえる話です。

歴然たる事実として、人類とゴキブリは兄弟です。
人類とゴキブリは共通先祖を持っています。
おそらくカンブリア紀より前の謎の生物です。

その生物まで人類を戻します。
それは可能です。
とは言え、いきなりその生物まで戻すのは難しいので、少しずつ品種改良していきます。
人類を品種改良で千年前の先祖に戻し、そのさらに千年前の先祖に戻し…を繰り返すのです。
人類は少しずつ頭が悪く、毛深く、姿勢が(現代人の基準では)悪く進化していきます。
最終的には人と虫の共通先祖にまで進化してくれるでしょう。

いったんゴキブリとの共通先祖まで戻したら、今度は逆のプロセスを行います。
品種改良で、ゴキブリまで進化させるのです。
これは可能です。
なにしろゴキブリが一度それをやってのけたのですから。

さて、こうして出来たゴキブリは、分岐分類学的に何になるでしょうか?
分岐分類学的にはこれは人間の一種です。
人間から進化したわけですから。
(当然、人間なので哺乳類の一種でもあります。)

しかし、そのゴキブリには人間の名残は一切ありません。
遺伝型レベルでも、表現型レベルでも。
それどころか、既存のゴキブリと交配可能ですらあります。
それはゴキブリなのです。
遺伝型レベルでも、表現型レベルでも。

おそらく次の表のようになるでしょう。

分岐分類学vsおそらく正しい考え方
このゴキブリは人間か? このゴキブリはゴキブリか?
分岐分類学 Yes.このゴキブリは人間の子孫だから人間である。 Yes/No. 考え方によってはどちらでもある。(このケースではおそらくYesの方が強い。)
おそらく正しい考え方 No.人間の名残が全く見つからないのに人間だとする理由がない。 Yes。遺伝型も表現型もゴキブリならそれはゴキブリだ。


分岐分類学的には人類を先祖に持つゴキブリは既存のゴキブリと同じグループに入るか?

上の表を見て「あれ?これおかしくない?」と思った方がいらっしゃるかもしれません。
分岐分類学的には新ゴキブリが既存ゴキブリと同じグループに入るかもしれないと、表には書かれています。
「分岐分類学的には新ゴキブリは既存ゴキブリを先祖に持たないんだから違うグループなんじゃない?」
と思われる方もいらっしゃるでしょう。

しかしよく考えてみましょう。
私たちはどうやって新ゴキブリを作ったのでしょう?
それは既存ゴキブリの遺伝型や表現型を参考にしてなのです。
つまり、既存ゴキブリの情報が新ゴキブリに流れています。
既存ゴキブリの遺伝情報が、新ゴキブリに流れているのです。
これは、普通に考えて、新ゴキブリが既存ゴキブリの子孫であることを意味します。

ですから、Yesです。
分岐分類学でも、新ゴキブリは既存ゴキブリのグループに入ります。
このケースに限っては。
しかし、もし品種改良して作った人類とゴキブリの共通先祖を宇宙中の天体にばらまき、自然淘汰により進化させたら…

似たように進化するケース

収斂という現象があります。
生物は系統が多少違っても、似たような環境なら似たように進化することがあります。
クジラと、その他の魚は見た目が似ていますよね。
空をとぶ動物は翼を持っています。
地球では完全に環境がおなじになることはありませんが、では完全に同じ環境を作ることが出来たとしたらどうでしょう?

さて、ここでデジタル物理学が正しくて、この宇宙がひとつのプログラムだったとしましょう。
そしてへーラルト・トホーフトの決定論的量子力学が正しくて、「進化のテープを巻き戻してもう一度再生しても全く同じ生き物が生まれる」としましょう。
(これからの議論をするのに、2つとも別に正しい必要はありませんが、このほうが思考実験をイメージしやすいです。)

40億年前の地球をコピーします。
宇宙全体ごと。
宇宙が2つになりました。
そして現在まで時を進めます。
人類が2つになりました。
分岐分類学ではこの2つの人類は違う系統ですが、片方の人類をもう片方の宇宙に移植すると繁殖可能です。
これは分岐分類学の致命傷です。
以上証明終わり。

もちろん、この議論はおかしなところもあると考える人もいるでしょう。
私もそう思います。
全く同じデータなら、それは2つのものではなく、一つのものだと考えることが可能なはずです。

あなたが楽譜をコピーしたところで、新しく曲が生まれるわけではありません。
この宇宙にどんなにたくさん楽譜があったところで、曲は一つだけです。
すべての楽譜が抹消されれば曲はなくなるといえるかもしれませんが、1つ以上なら曲の数は変わりません。
それと同じように、全く同じ人類のデータを書いたものがいくつあろうと、人類は一つだけです。
宇宙のデータを別のコンピュータにコピーしたところで、データが全く同じなら、存在する宇宙は一つだけです。

ですから上の例では、実は2つの人類なんてものは幻想なのです。

わかりました。
では少し設定を変えましょう。
「少しずつ違う宇宙を無数に作る」方式で行きましょう。
それならどれかひとつの宇宙で、「この地球の人類と繁殖可能なのに違う宇宙出身の生命体」がひとつくらいは生まれてもおかしくありません。
生まれなかった?
じゃあもっと宇宙を増やしましょう。

このように、分岐分類学の考えでは全く違うグループに入るはずなのに、実際には同じグループに入れるべき、というケースは十分ありえます。
上の思考実験は現実に行うのは難しいですが、シミュレーションである人工生命で同じことをやることは可能です。
そのとき人工生命の分類は分岐分類学的に考えるべきなのでしょうか?

分岐分類学の何がまずかったのか

以上のような問題点なぜ生まれたのでしょう?
それは、分岐分類学の基本的精神が状態ではなく歴史に依存しているからです。
現時点での遺伝情報や表現型ではなく、過去にどう進化したかに依存しているのです。

もちろん過去は遺伝情報に反映されやすいです。
しかし絶対ではありません。
人間をゴキブリに進化させたケースのように、過去の先祖を全く現在の遺伝情報に反映させないことは可能です。

もちろんそのようなケースはまれだと言うことは出来るでしょう。
ほとんどのケースでうまくいくのだから何がいけないのだ?というわけです。
しかし、そのような破綻するケースが生まれるのは、運用のしかたではなく、基本精神に問題があるからなのです。

きちんとものを分類しようと思えば、基本精神を変える必要があります。
もっと本質的な情報を見る必要があるのです。

例え話をさせてください。
将棋とは一体何でしょう?
王がいて、歩があって…。
しかしもし宇宙人のボードゲームにコマの名前が違う以外は全くルールが同じゲームが有ったとしてください。

ある考えではこれは将棋ではありません。
コマの名前が違うわけですから、「言語によって人の思考は変わる。言語は基本的に完璧な翻訳は不可能なものだ。名前が違うのならそれはもう違うゲームだ」みたいな考え方も可能かもしれません。

しかし多くの人はそのような考え方はしないでしょう。
それは単に「コマの名前が違うだけの同じゲーム」です。
コマの材質を木にするかプラスチックにするか、それともパソコンのディスプレイのピクセルパターンにするかという程度の違いでしかありません。
ゲームとしての本質は同じなのです。

分岐分類学は、動機自体は正当なものですが、将棋かどうかをコマの名前によって判断するような、実際的ですが近視眼的な発想にたどり着いてしまったのです。
そうではなく、もっと本質的なパターンをチェックすべきなのです。

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