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デイヴィッド・ドイッチュ『無限の始まり』名言集

※この記事は書きかけです

『無限の始まり』

デイヴィッド・ドイッチュさんの『無限の始まり』を(だいたい)読みました。
ドイッチュさんは量子コンピュータで有名な物理学者です。
しかしこの本は量子コンピュータに限った話ではありません。
科学哲学っぽいことや生物の進化やらコンピュータやら宇宙やらなにやらいろんなことについて書いてあります。
そしてそれぞれが非常に刺激的で面白いのです。

刺激的というのは、私たちの多くが考えているであろうことが、批判されるからです。
それでいて(少なくとも私はそうだったのですが)、その批判が心地良いのです。
自分の信じていることが批判されているのに嫌な気分にならない、というのは、私自身がドイチュさんと基本的なことでは同じ考えだからだというだけかもしれませんが、この上手な批判っぷりは見習いたいです。
建設的な批判というのでしょうか。

もっとも、時々批判ではないけれども面白いというような文章もあります。
ドイッチュさんの言うこと自体が面白いのかもしれません。
ともかくこの本は面白いのです。

この記事では、その刺激的な文章を並べ、それについて私の考えを述べたいと思います。
面白そうだと思ったらぜひドイッチュさんの本を読んでくださいね。

※ちなみにこの『無限の始まり』、一言で言うなら「無限の進歩」についての本です。
人類は無限に科学を発展させ続け、無限に問題を解決し続ける能力があるのです。
まあそのうち自分たちを改造して寿命という問題を解決することがあるかもしれませんが、それも人類の範疇です。
ノリが理解していただけたでしょうか?


第3章 われわれは口火だ

限界なしには適応できないのか

いずれにしろ、人々が人間中心的説明を導入したのは、傲慢さのためではなかった。それは単なる偏狭な誤りであり、本来はかなり合理的な説明だった。人々が自らの誤りに長いあいだ気付かなかったのも、傲慢さのせいではない。よりよい説明を探し求める方法を知らなかったために、何にも気付かなかったのである。ある意味では、人間について問題なのは、傲慢さが足りなかったことだといえる。自分たちにとって世界は根本的に理解不可能なものだと、あまりにも簡単に決め込んでしまったのだ。

これはなかなか刺激的です。
人間は傲慢さが足りなかったからこそ間違ったのだと言っています。
人間中心な宇宙観は傲慢さ不足のせいだったと。

よく考えると、これはなかなか正しいような気がします。
正しい理論に到達するためには多少傲慢であったほうがいいでしょう。
たとえば、現代社会では次のようなことがよく言われます:

「人間がなんでも理解できるなんてのは傲慢だ。
人間には他の生き物が「どうして」そんなことをしているのかなんて本当の理由はわからない。
後付で人間が勝手に言っているだけだ。
他の生物の「気持ち」がどんなものかわかった気になっている人間は傲慢だ。

宇宙の物理法則がほんとうにそうなっているのかなんてわからない。
どうせ理論なんて全て近似にすぎないし。
全て科学で解明できるなんて人間の思い上がりだ。

宇宙人にあった時その宇宙人と意思疎通できるわけがない。
相手は自分たちとは全く違った価値観を持っているかもしれない。
深刻な誤解が生じ破綻するだろう。
多種族と意思疎通できるなんて傲慢だ。」

現代では傲慢さを戒める言葉は多くの場合「理解することをあきらめさせる」ことにつながっています。
そういう意味で傲慢さは理解の友であり、むしろ積極的に受け入れるべきものかもしれません。
聖人のように微笑みながら「傲慢であってはいけません」みたいなことを言う人の言い分を無条件に受け入れていては、いつまでたっても理解度は上がりません。
何かが理解可能であろうと本当は理解が不可能であろうと、理解しようとする行為そのものが阻害されてしまうのです。

ちなみに「他の生物が「どうして」そんなことをするのか」とうのは基本的にネオ・ダーウィニズムで説明可能です。
進化学批判として「人間は他の生き物を理解できない」みたいなことはよく言われますね。
こういったことからも「傲慢さを戒める行為」みたいなもののなかに、ある種の有害さが感じ取れます。

第17章 人工創造力

「人工進化」と遺伝暗号

私はこうした理由から、何らかの「人工進化」で知識がつくり出されたことはまだないと思っている。そして、シミュレーションされた有機体を仮想環境の中で進化させようとしているものや、さまざまな仮想種どうしを戦わせるようなものなど、少々趣の異なる「人工進化」についても、私は同じ理由で同じ見方をしている。

ここで批判されているのは「遺伝的アルゴリズム」とか「遺伝的プログラミング」とかそういったものです。
具体的にはたぶんカール・シムズのEvolving Virtual Creatures

第18章 始まり

スーパーヒューマン?

また、脳の状態をバックアップしておいて、人が死んだらその本人とそっくりに作られた身体に収められた新しい白紙の脳にそれをアップロードできるテクノロジーによって、殺人や事故による死を防ぐことも可能になるだろう。このテクノロジーが実現すれば、未来の人が事故のバックアップをしないのは、今の人がコンピュータのバックアップをしないよりもずっと愚かなことと思われるようになるだろう。

ここで言っているのは、死後、自分のコピーを再生する技術です。
自分が交通事故で頭が潰れて死んでしまった場合、自分の過去の脳の情報から自分を生きかえらせるのです。
当然生き返った自分は最新の自分とは違います。
バックアップを取ったのが3日前なら3日から今日までの記憶が生き返った自分には存在しません。
SFでは今や一般的に使われるテクノロジーですね。
そして「それは本当の自分なのだろうか?」というのは陳腐なほど繰り返されてきた疑問です。

面白いのは最後の表現です。
"未来の人が事故のバックアップをしないのは、今の人がコンピュータのバックアップをしないよりもずっと愚かなことと思われるようになるだろう。"
バックアップの大切さを現代人にもわかるように上手く表現しています。
なるほど、たしかに私たちは既にバックアップの重要さは理解しています。
描きかけの絵や論文がハードディスクのクラッシュによって消えては大変です。
大学生は論文のデータのバックアップは必ずするよう注意されます。
論文が書けなければ卒業できずに就職失敗するかもしれません。
つまりバックアップすることは現在でさえ人の人生に大きく影響しうるのです。

ここも面白いのですが、その後も面白いです。
こういう「自分のコピーを復活させる技術」というのは、たいてい次のような反論が来ます。
「そうやって自分の記憶を持ったコピーが生き返っても、それは僕じゃなくて、僕そっくりの他人じゃないか。
他人に自分の家族を任せろっていうのかい?
冗談じゃない。
僕自身が生き返るんじゃないのなら僕はそんなことはしたくないよ。」
このような意見に対する再反論となりうる意見をドイッチュさんは繰り出します。
(ドイッチュさんがそのような意見について本で書いてはいませんが、おそらく念頭にあるでしょう)

ドイッチュさんの再反論とは、放っとけば皆バックアップを取るようになるだろう、というものです。
これはあまりに都合のいい楽観的な観測だと思われるかもしれません。
しかし、これにはかなり強い根拠がついてきます。
バックアップをしない人間は死んで宇宙からいなくなる、というのがその答えです。

バックアップを拒否する人間 → いずれいなくなる
バックアップをする人間 → (同一人物かはさておき)存在し続ける

お分かりいただけたでしょうか。
要するに数の問題なのです。
バックアップをする人間の数は減ることがありません。
一方バックアップを拒否する人間の数はどんどん減っていきます。
結果残るのはバックアップをする人間だけ。
バックアップ人間も自殺すれば減るでしょうが、それはバックアップ拒否人間も同じです。
バックアップはいずれ社会に受け入れられるでしょう。
なぜなら社会はバックアップを経験した人間ばかりになるからです。

これは私の自慢になってしまいますが、私も全く同じことを考えていました。
(はい、それを言うなら先に発表するべきではありました)
これは自然淘汰と同じです。
人間が、バックアップを受け入れるよう進化するのです。
おそらくダーウィン主義を知っていてかつSFでバックアップ技術を読んだ人なら多くの人が思い浮かべるロジックではないかと思います。
私もドイッチュさんも(私ごときとドイッチュさんを同列に記すのはあまりにおこがましいですが、他に表記の方法がわからないのでこうします)、共にドーキンスさんの著作を読んでおり自然淘汰に関する基本的な知識は持ち合わせています。
そういうわけでドイッチュさんのこの考え方には非常に共感します。

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