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プログラミング、3DCGとその他いろいろについて
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マインスイーパー、自然淘汰、学習にはある共通点があります。すべて周囲にある未知のものの状態を明らかにするのです。マインスイーパーは地雷の埋まった場所を明らかにし、自然淘汰は周囲にある危険なものや有益なものへの対処法を遺伝子に記録し、学習は周囲にある危険なものや有益なものへの対処法を脳に記録します。
マインスイーパーは1960年代からあるいにしえの地雷探しゲームです。下の図のように、ゲームはどこに地雷が埋まっているかわからない状態から始まり、全ての地雷を見つけることでクリアします。地雷を踏んでしまうとゲームオーバーです。
ではどうして人はマインスイーパーをするのでしょうか?わたしがマインスイーパーをした理由は初めて買ったパソコンに付いていた数少ないゲームの一つだったからですが、私のここでの疑問は、人類はなぜマインスイーパーを生み出したのか?というものです。
ダーウィン主義的な答は次のようになるでしょう:「マインスイーパーそのものは生存に役立ちはしないが、その論理的な構造は生存に役立つ何かととても良く似ているので、本能はそれに反応してついやってしまうのだ。」何かの昆虫のオスは色を塗った木の棒をメスと勘違いして交尾しようとするそうですが、それと似ています。ちゃんとした意味のある生物のプログラムが誤ったタイミングで作動してしまったというわけです。
ではマインスイーパーの一体どんなところが現実に役に立つなにかと関わりがあるのでしょう?もちろんこれは地雷除去と似ていて、それはじっさい役に立つのですが、人類の先祖が進化してきた環境に地雷はなかったので、人の本能が地雷除去したがっているわけではなさそうです。答えはおそらく、周囲の環境のマッピングでしょう。生物は周囲の環境がわからない状態で生を受けるので、生き残るためには周囲を調べて、危険なものは避け、栄養豊富な餌はより良く取れるようにならなければいけません。
実際、自然淘汰も学習も最初は一つの場所からスタートするという点ではマインスイーパーと同じです。地球最初の生命は、生まれた場所以外のことは何も遺伝子に刻まれていなかったはずです。自然淘汰によって周囲の環境に対する対処のしかたが遺伝子に保存されていったのです。学習も同じく、赤ちゃんは生まれた場所以外のことは本能で知っている以外のことはほとんど知りませんが、学習で既知の空間が広がっていくのです。
自然淘汰と学習が同じようなことをしているというのは当然のことです。というのも、学習能力を作り上げたのは自然淘汰であり、学習能力が自然淘汰と対立するのならそれを可能にする遺伝子はさっさと消滅してしまうだろうからです。自然淘汰は何世代にも渡って行われ、学習は一世代の間で行われるという違いはあるものの、大雑把な役割は同じはずです。
これは、ビーバーのダムや蜘蛛の巣や人間のつくった建物がそれらの生物の一部であるという「延長された表現型」という考え方とも合います。マップを広げる途中で、そのマップにちょっとだけ手を加えるのです。そうすれば、生き残る確率は上がるかもしれません。自分の周りに仕切りを作れば、夜の寒さから身を守れます。
実際、「蛇から身を護るため自分を蛇から離す」というのと、「寒さから身を護るため木材を自分の周りに配置する」というのは、何かのために物質を移動するという点では同じです。自分の体も周りの物質も同等に扱うのが延長された表現型の考え方です。もしかすると、生き物というのは「細胞でできた体」ではなく、上の図のマスが開かれ内容が明らかになった部分全体なのかもしれません。身体だけではなく、周りの物質も合わせて生物なのです。マインスイーパーは地雷の上に旗を立てることによってうっかり地雷を踏まないようにしますが、これは旗が自分の一部になったということです。マインスイーパーをしている人は、延長された表現型理論で遊んでいるわけです!